ご飯が進むこと
お待たせしました。
今日は、あの話をしようかと思います。
そう、皆さんが大好きな、あの話。
はいはい、そうですねー
やっぱり皆さん大好きですもんねー、「アートマン」と「ブラフマン」のお話。
お釈迦さまは、永久不変のアートマン(霊魂)については、一貫して沈黙の姿勢を貫いています。肯定も否定もしていないわけですね。
同時に、宇宙の根源たるブラフマンについては「想定しない」という立場で排斥しておられたわけです。
このあたりのお話しをサトゴロウさんが教えてくれる、不思議な仕組みと合わせて考えてみると、インターハイを目指してもっか伸び盛りで、向かうところ敵無しの柔道少年並に、軽くどんぶり飯を5杯はいけちゃうんですね。
「かっかるー!!」って、
たくさんのオーディエンスの皆さんが、うんうんと、深~く何度も、まるで会津名物の赤ベコのように頷いていらっしゃる姿が見えます。
さいたまスーパーアリーナでの星野源さんの気持ちが少し分ったような気がします。
で、、、一応伺います。
続けても大丈夫でしょうか?
はい、では、続けます。
一見すると釈尊は、そこを棚上げしたような印象を受けるのですが、原始仏典を読んでいく中でのタツゴロウ(私)の勝手な解釈ですが「目的には必要ない。」と言うのが、釈尊のお考えなのではないかと思ったりしています。もっと言えば、目的には邪魔な概念なんだということなのかも知れません。
苦の終滅や解脱が、目的なわけで、そのプロセスにおいて不要なもの。考える必要がないもの、と言う立ち位置だと考えるのがスマートなように思います。
解脱と輪廻に対しても、ある意味で同じスタンスをとられています。
解脱とは、迷い・苦しみのループからぬけ出し悟ること、ニルヴァーナですが、釈尊は輪廻についても黙秘権を行使しています。普通に考えれば「迷い・苦しみのループ=輪廻」だと思いますし、そこから脱することが解脱。
なのであれば、輪廻の概念無くしては解脱はありえないはずですが、そこについては語りません。
そうですよね~
ここが、ご飯が進むポイントですよね~
ただ、なんとなく思うのは、そこがあまりに根源的であるが為に、そこの有無を考えたり、想像すること自体が、魂と肉体の二刀流である人間にとっては、最大の執着や妄執であると、考えられたのかもしれないなぁ、とか思ったりするわけです。
文献の信憑性は定かではありませんが、バラモン教への対立軸(否定)として仏教が誕生したわけですが、バラモン(祭司)達は、釈尊こそ最高のバラモンだと言っていたとか、いないとか。
あえて語らないと言うスタンスで、根源である「輪廻」や「アートマン」「ブラフマン」を、強く肯定していると捉えたのかも知れませんね。
それぞれの考え方や視座、社会的背景によって、表現の仕方や伝わり方が違うのだと思いますが、やっぱり真理ってあのへんにあって、、、とか、本当に面白いなぁって思うわけです。
昨夜はあんまり星空が綺麗だったもんだから、寝ようと思ってから一度外に出て、星を見ながら、先程の話に、アカシックレコードとかの仕組みも合わせて考えてみたりしたわけですね。
あー、もう、もう、、、
「すみません!!替え玉お願いします!!!(本日4回目)
あと、ライスも大盛りで!!」
何倍でもいけます。