その先のこと
あの谷のことが思い出させられた、タツゴロウ(私)です。
皆さんは「終活」について、どう考えられますか?
また、何か「終活」をしていますか?
タツゴロウ(私)が『献体』という言葉に出会ったのは、高校1年の時でした。
チチゴロウに連れられて行ったのは、タツゴロウ(私)の故郷にある郡病院。
「たぶんこれが最後になるから...」チチゴロウのあんなに寂しそうな表情と、ソボゴロウの涙を初めて見たのもその時でした。
ベッドで静かに眠る伯母は、あんなにふっくらしていたのが嘘のよう。
聞けば10年程前に乳癌が見つかって摘出、それから何年かして子宮への転移が分かり子宮も全摘出していたそうです。タツゴロウ(私)の前では、いつも明るく元気な伯母だっただけに、その時に伯母がそういう状態だったことを初めて知りショックを受けたことを覚えています。
それから脳へ癌の転移が分かった時には、もうあと2~3ヶ月という状態だったそうです。
余談ですが、伯母の旦那は道楽者で、タツゴロウ(私)は凄く苦手な人でした。というか大嫌いでしたね。酔っ払っていない時を見たことがないような伯父でしたが、伯母が入院してからも飲んだくれていました。なんなら、伯母が入院した数日後に、吐血して自分も入院。Y団地からタツゴロウ(私)のバイト先の店に向かう坂の途中にある佐藤医院?斉藤医院?に入院するも、抜け出して酒を飲んで、また担ぎ込まれること2回。
2度あることは3度あるとは良く言ったものですね、3度目に抜け出した時に、自宅で倒れているのが見つかり、救急車の中でバケツ1杯分の吐血をして、そのまま亡くなりました。
伯母は、伯父が入院したことも死んだことも知りません。
モルヒネで痛みを和らげ、穏やかに眠っている伯母。散々伯父に苦労かけられてきた伯母。せっかくアイツが死んで、これからゆっくり生きられるのに、今亡くなったら、またあの男のところに行ってしまうのかも知れない思ったら、涙が止まらなかったですね。
前夫との間に生まれたタツゴロウ(私)の従兄弟は、当時30歳くらいでしたが、時代を先取りし「引きこもり」でしたし、後にチューバッカと呼ばれることになる異父弟は、二十歳そこそこでしたので、伯母の身元保証人は、実家の跡取りチチゴロウ。
その日、郡病院から「危険です。」との連絡が入り、何故かは覚えていませんが、チチゴロウに連れられてタツゴロウ(私)とソボゴロウの3人で病院まで行きました。
そこで、初めて『献体』という言葉を知りました。
近い将来、伯母が亡くなること。
それと合わせて、主治医の先生から献体の依頼がありました。
伯母の頭に転移した癌は、右脳と左脳を繋ぐ脳梁の横にあり、極めて稀な症状とのこと。レントゲンを見ると、脳のど真ん中の、こぶし大の白い陰が見えました。素人が見ても普通の状態では無いのがすぐに分かりました。
根本的な治療法がない中、肥大していく腫瘍と頭を覆う頭蓋骨に脳が潰されることを防ぐ為、伯母は頭蓋骨をほとんど剥がされ、頭は袋のようなものに包まれていました。
その病を研究する為に、医師から献体の依頼があったというわけです。
それを聞いたチチゴロウ。
怒っているところなど、ほとんど見たことが無いのですが、その時は「大事な姉さんを、実験体になんてできるか!!」と、お声を荒げていましたね。
一方、ソボゴロウも「遺骨は戻らないの?戻らないのならイヤです。」と、はっきり答えていました。
タツゴロウ(私)は、それを黙って聞いていました。
その場では、結論が出なかったように記憶していますが、それから一月程経った大雪の日に伯母は亡くなり、数日後には荼毘にふされていましたので、献体の依頼には応えなかったんだと思いました。
魂と分断された後の肉体の使い道。
生前の自らの意思、そして残される者の想い。
いろんな考え方がありますが、その正誤を論じることさえ滑稽に思えます。
同時に「人は、人や社会の役に立ちたい」という潜在的且つ狂信的とさえ感じるほどの強い使命のようなものを感じざるを得ません。
生きるということ。
死ぬということ。
お役に立つこと。
しっかり向き合いたいものですね。