ママとたっくんのこと
明日から断食。
タツゴロウ(私)です。
「ママ~。」
2歳くらいの男の子。
その子の手にはしっかりと握られたお菓子の箱。
「たっくん、これはダメ。カラカラ(辛辛)だよ~。戻しておいで。」
お菓子の箱には、黒く、そして太く、大きな「チョコ」の文字。
たっくんは、聞き分けのいい子なのでしょう。
ママの言う事を素直に聞きます。
「ママ~。」
たっくんの手には、萩の月を120%パクったカスタード入りのお菓子。
「たっくん、これもカラカラ。戻してきてね。」
・・・
ほどなくして、たっくんが両手で握り締めていたのは、ハチミツと書かれた瓶。
飴色にキラキラ輝く瓶の中身は、正にたっくんが求めるそれであることは、幼児と言えど容易に想像がつきます。
キラキラの瓶には、たっくんの瞳が映って見えます。
「マ...」
かぶせ気味に「カラカラだよ~。」
・・・
頑張れ!頑張れ!たっくん!!
心の中でエールを送るタツゴロウ(私)。
目には熱いものがこみ上げて来ているとか、いないとか。
たっくんの悲しそうな瞳。
でも、辛いものが食べられない自分へのママの愛を小さな心でしっかりと受け止めているのか、涙は見せません。
強いぞ、たっくん。。
・・・
しかし、たっくんもやっぱり子供。
また、物色を始めます。
!!
何かに気づいた たっくん。
手にしたのは、「アンパンマンお絵かきセット」。
「ママ~~!」
まるで宝物を見つけたような笑顔で、母親の元に駆け寄るたっくん。
声のトーンも声量も今までのそれとは比べ物になりません。
「ママ、ママ~~!」
振り向いた母親は、愛しそうに我が子を見つめ、「うんうん。」と頷きます。
そして、すっと座りたっくんの頭を撫でながら、満面の笑みで こう声をかけました。
「これも、カラカラ。」
「ママーーーーっ!!!!」
タツゴロウ(私)の声にならない声が響きわたります。
たっくん...
たっくん...
たっくん...
社会はカラカラですね。
結局、たっくんは何も買ってもらえませんでしたが、元気いっぱいで「ばいばーい!」って、手を振って行きましたとさ。
たっくんの
笑顔に勇気を
もらったよ
そんな俳句の日(819)
タツゴロウ(私)でした。
奏でること
はよしろしなしな、秘密のマントラ。
タツゴロウ(私)です。
七月の上旬からまともに雨が降っておらず干上がる寸前だったタツゴロウ村に、昨日待望の雨が降りました。
それはほんの15分くらいの間、まるでスコールのような雨。
雨が降る前のあの独特な匂いというか気配というか、、、すごく好きなタツゴロウ(私)。昨日も久しぶりにその大好きな感覚を味わわせてもらいました。
すぅっと少し冷たい風が通る。それは、まるでオーケストラが始まる前の、オーボエの響きにも似た感覚。間近に迫った来るべきその時に向け、周りが音やエネルギーを合わせていく。
来るぞ来るぞ。。
高まる鼓動。
雷光一閃。
それが振り下ろされたタクトだったかのように、一斉に激しい雨が降り注がれます。今までの聞こえていた音がまるで無かったかのような、雨音だけの世界。
、、、すべてが洗い流されるような感覚を感じながら、雨音に耳を傾けると、雨音も色々なことに気づきます。
アスファルトを叩く音、地面に溜まった水溜りに落ちる音、川を流れる音や、植物にあたる音、よく聞くと一つ一つ違うんですね。まるで本当のオーケストラのようです。
次第に雨の勢いは弱くなってきましたが、タツゴロウ(私)の鼓動は高まる一方なわけです。何故かと言えば、雨音にかき消されたいた優しく、そして心躍るハーモニーが聞こえてきたからです。
それは正に、恵みの雨。
雨を待ち望んでいたのは、人間だけではなく、動物や植物もみんな雨を待っていたんですね。
蝉や虫たちのけたたましい鳴き声、小鳥たちも一斉に飛びまわる。
植物たちは、目一杯身体を広げて雨を受け止める。その緑の香りは濃度を増し、山は彩度を上げ鮮やかさを取り戻す。
十人十色、百人百様、千差万別、皆その喜びを各々個性を持って表現する。
欣喜雀躍、狂気乱舞。
そのエネルギーのリズム、メロディ、ハーモニー。自然の息吹、自然のオーケストラに聞き入ってしまいました。
もぉ、タマランチ会長です。
先日、ホルンを使ったエンターテイメントを楽しんできたからなのか、昨年始めてクラシックのコンサートを見てからなのか分かりませんが、自分が今までも好きだったこの感覚をこんな風に感じたり、表現できたりしてるのも何だか凄く面白いですし、嬉しかったりします。
そして自分も、この地球の、命の、オーケストラの一員のような感じもして、幸福感と安らぎを覚えたりもしたわけです。
で、何が一番嬉しいかって、こんな話を楽しそうに、羨ましそうに聞いてくれるパートナーがそばにいてくれることです。
ホルンの時も「タツゴロウさんが、他の人と少しズレたとこで、くすくすしているのを横で見るのが楽しい。」とか言ってましたしね。
てか、オーケストラもホルンも、結果、十八番の仕込みだったんだと気づいて、本当につくづくなわけですが、本当に本当に感謝の気持ちが溢れてきます。
いつもありがとう。
今度は雨も一緒に見ようねー
ライオンゲートの通過、新しい世界観。
楽しみっす。
みちること
有明の月が優しく微笑みかけてくれました。
タツゴロウ(私)です。
少し前からなんだか気になっていた言葉、「満ちる」。
先日 サトゴロウさんに
「タツゴロウさん、最近だいぶ変わってきてるよー。男っぷりがあがってるよー。」って言われて、とっても嬉しく、きゅんきゅんきたわけですが、確かに満たされている感覚が今までと違う感じがしていました。
なんだかこう、2年半くらい歩いてきた道がしっかりと見えてきたような気がします。
人生って、どんな器を作って、そこに何を満たしていくのか、、、的な側面があるような気がしていまして、40年かけて器の形状や満たしたいものが、分かってきたところにようやく来れたような感じ。でも同時に、それだけなのかなぁ...という疑問が湧いてきたりしているわけです。
タツゴロウ(私)の場合はどうでしょう。
器を作って満たそうとするも、横風にあおられたり、その重みに あっちへふらふら こっちへふらふらして、たぷんたぷんと溢したり、手を滑らせて溢してしまったり。
うまく進めず足踏みしたり、回り道したり、そんな風にしながら器を満たしていく。
時折、勢いでたくさん入れすぎて溢したりもして。
本当に色々あるなぁ、と。
でも、そのプロセスって本当にありがたいなぁて思ったわけです。ただ、満たして終わりでないんですもんね。逆にただ満たすだけなら、もしかしたら人生つまらないモノになってしまうのかも知れません。
「 雨振って地固まる」のように、自身の満たしたいものがこぼれることで、自らの道を固める。そして、真っ直ぐ進めず、左右に振られたり、逆戻りしたり。そうしながら、踏み固められて人生の地が、踏み固まり、道になるんでないかと思うんです。
溢して踏んで、また溢して踏んでこその、自らの道。
「満ちる」や「充ちる」の先にある、「道る」。
そんな人生を歩んで行きたいと思うわけです。
タツゴロウ(私)の場合は、満ちる前に溢してしまったりしている事の方が多いようですが、サトゴロウさんが感じて言ってくれたことって、きっと、何かが「満ちてきた」ってことよりも、「道てきている」ことを言ってくれてるんでないのかと思いました。
そういうところを感じてもらえるって、本当にありがたいですね。
いつもそばにいてくれるおかげです、一人では何にも出来ません。
そんなサトゴロウさんも、すごく道っていて輝いています。
これからも共に、満ちて、そして道て、生きて行きたいと願って止みません。
今日も窓越しに見える火星が綺麗です。
朝のこと
みぞおちあたりに少し重い息苦しさを感じたのは、朝方だったのかも知れません。汗ばんだ首筋が少しつめたく感じる。あれはきっと朝 生まれたての風の仕業だと思うわけです。
小さな光が見えたと思うと、一瞬で爽やかな風と桃色の光に包まれる。
そこは静かなところ。でも、何かがおかしい。
例えて言うなら、夏休みの教室。
静まりかえっているけど、無数の小さなエネルギーがまだそこに居座っている感じ。生徒たちがあちらこちらでゲームや部活、恋愛話などで盛り上がっているような、騒がしさが残っている。静寂が、そこに残された小さなエネルギーをより敏感に感じさせてくれている。静と動が詰め込まれた空間。
なぜだか懐かしさも感じるのも不思議ポイント。
見上げると、どこが頂なのか分からない吹き抜けのような場所であることに気づく。周りを見渡すとまるで宇宙空間のように、広がる暗黒の世界。深呼吸をするとかすかに何かがある(いる)ことを感じる程度。
しかし、とにかく息苦しい。
呼吸毎に胸が重くなる。
「そうじゃないよ、そうじゃないよ」
突然の声をかけられ慌てて上を仰ぐと、真珠のような玉が2つ、不規則な円を描きながら回転している。ガンダムに出てくるハロのような形状にも見えるが、ハロではないのは確か。その玉たちは、ゆっくりと優しく旋回しているが、時折加速したりもする。なんだか無邪気な子供のような可愛らしさも感じる。
「うんうん、そうそう、そんな感じ」
「もう少しだけ上かも」
意味が良く分からないまま、その玉たちと会話にならない会話をしていると、どんどん呼吸が楽になっていくのが分かる。玉たちがこの環境への適応の仕方を教えてくれていたのかも知れない。
どこかで聞いた言葉だと思ったけれど、後の瞑想中にサトゴロウさんがしてくれる誘導瞑想の誘いの言葉に良く似ていることに気づいた。
そんな会話をしながら、玉たちは静かで賑やかなその空間を上の方へ誘う。
しばらくすると、天の頂らしきものが見えてきた。
頂は全面がオーロラのように淡く七色に輝きゆらめいている。恐怖を感じる程の圧倒的な美しさ。周りは相変わらずの静けさだが、感じるエネルギーの量が尋常じゃなくなっている、まるでお祭りのような賑やかさ。というより、ぶつかり合う喧嘩神輿のまっただ中に投げ込まれたよう。
オーロラを仰ぎながら喧嘩神輿にもまれる、、、ある意味贅沢な体験。
玉たちはにこっとしたかと思うと、ぷるぷるっと細胞分裂をするようにいくつかに別れ、一斉にオーロラへ降り始めると、玉が突き抜けた隙間から桃色の光がまるで豪雨のように流れ出て暗黒を一気に明るい世界に変える。
突風にとーんと押されるように身体が浮き上がったと思ったら、一瞬ぎゅっと強く締め付けられる感覚を覚えたあと、熱い空気が肺いっぱいに吹き込んできた。
そこは布団の上。
喉はからからだ。
・・・
そんな夢を見たのは、昨日、芸術からの台風からの夕日からの海からの海月からの満月からのセレブレイトな体験をしたからでしょうか。
早速瞑想をして、夢の感覚を馴染ませて味わます。
そして「まずはプランク1分が3セット出来るようにならないと、何にも始まらないですよ。」と励ましなのか、ディスりなのかは分からないですが、副業の後輩に確実に真上から言われた言葉を思い出しながら、プランクをして、強風の中ランニングをしたタツゴロウ(私)でした。
伏すこと
進行管理と打とうとしたら、信仰管理と変換された高スピリチュアル男子、タツゴロウ(私)です。
10月の山伏修行体験をしてきます。
山に「伏して」修行するから山伏だとか。
山伏は、山岳という異世界に伏して、そこにいらっしゃる神々や仏たちと人々を繋ぐシャーマンのような方達のように思います。そして、この「伏して」がすごく重要なのでないかと思ったりもしています。
そこに住んでとか、暮してとかでなく、、、伏して。
ただその過酷な環境に身を置くことで、超自然的エネルギーを感じとるのではなく、そこに伏すことによってこそ、のような気がします。
「伏す。」そこには敬意と尊敬があり、躊躇いや恐れなどが無い状態のように思います。その圧倒的な自然をありのまま感じること、感じざるを得ないほどの圧倒的な自然のエネルギー。伏さなければ辿り着けないであろうその領域。
どんな感覚や心持なんだろうなぁ、と今からドキドキしているわけです。
そんなことを考えにやにやしていた時に、ふと思ったのが、人間は何かに伏すことによって、アナザーワールドと行き来が出来るようになるかもなぁ、なんて思いました。
タツゴロウ(私)の肉体の過去世は海女さんだったりするわけですが、毎日 海に伏す「海伏」だったのかも知れないなと。否が応でも日々向き合う海。もうそこから逃げ出したくなるような、死んでしまいたいほどの暮らし。でも、心の奥に確実に存在する大いなる恵み、母なる海への敬意と尊敬、、、そして愛。
自身では認識出来ていなかったのかも知れないですけど、くるくる回って今ここ、、、現世のタツゴロウ(私)が思うに、海に伏していたんでないかと。
少し違いますがお仕事などでプロフェッショナルって呼ばれる方は、その仕事に伏しているんだなぁ、と思ったりもしました。
少し角度を変えてみると、外へ伏せる方って、実は自分自身、中にも伏しているんでないかなぁ、、、「我伏」なのかなぁ、、、とか仮説を立ててみたりすると、ダイエット中と言う事もあって、キリンさんばりにお口がよだれまみれになるわけです。
伏すこと、、、深いなと。
もっと認識を深めたいなと、、、てか、面白いなぁ。
何言ってのかしら、ボク(笑)
来月の断食に、山伏修行。。。
もー、タマランチ会長です。
こないだのこと
自分のホーリーネームが思い出せません。
タツゴロウ(私)です。
先日、はるばるアメリカからお越しいただいた研究者の方と意見交換をさせていただいて、その中で「入れ墨(タトゥー)」についての意見を求められたタツゴロウ(私)ですが、外国人の旅行者が増えてきている中で温泉旅館や公衆浴場は、どういう対応をとったら良いのか困っているのだそうで、行政も明確な方針を出していないのが現状だそうです。
タツゴロウ(私)の主観でしかありませんが、日本人は入れ墨に対して伝統的に良い印象を持っていないと思います。これは「恐怖」に起因しているものではないかと思われます。「反社会的な方が入れるもの」という認識の方も少なくないように思いますし、タツゴロウ(私)自身もポジティブなイメージはありません。
しかし、海外の皆さんはファッションとして楽しんだり、信仰の証としてタトゥーを彫られたり、、、日本人のそれと全く違うことは確かだと思います。
そこで「それをどうするのか?」と言う議論になるわけですが、多くの場合は「どうやって断るか」と言うことについて議論されているように感じます。もちろん、そうではないこともあるかとは思いますが、一般的にはそういうスタンスでこの問題の解決を図ろうとしているように思います。
どんな風にアナウンスをしたら、お風呂に入らないでもらえるか、、、関係業界からは、「国の方針を示せ」などの声もあがっているようですが、国がこうしろと言ったら責任を押し付け先が出来ていいのかなぁ、とか思ったり、タツゴロウ(私)は正直意味がよく分からないですね。
海外の皆さんに日本の文化を感じてもらいたいと言い、どんどん宣伝もしています。また、海外の皆さんも温泉を日本文化としてとらえ、体験したい項目でも常に最上位です。
なのに、怖がらせる気も何もなくタトゥーを入れられている方達に対して排他的な考えが先行する意味が良く分からなかったりします。
何故、「どうやったら入っていただける」のかの議論が大きくならないのかに疑問を覚えます。
タツゴロウ(私)は、温泉入浴は、異文化交流の最大のチャンスなのではないかと考えています。
例えば、外国人の方に日本人はタトゥーを怖がってしまう文化なんだとしっかり伝え、逆に、日本人の方々には、外国人の皆さんにはそういう意図は全くないことも伝えれば、共に異文化への理解を深められるのではないかと思いますし、温泉提供側も伝統文化を通じて異文化への認識を深められる唯一無二の役割を担うことが出来て良いのではないかと思ったりします。
その中で、何か身につけることでそれが軽減出来る方法であったり、色々な方法を考えれば建設的でいいのにな、と素人丸出しな意見をもったりするわけです。
知りたいと思うのは、全部違うと知ることだ。
肌の色も、話す言葉も、信じる者も、考え方も、感情の出し方も、話し方も、食べ方も、表情も、全部違う。
「自分とは全部違う」ことが前提なのであれば、怒ったり、毛嫌いしたり、嫌な感情や排他的な行動どころか、逆にその人から学ぼうとするんだと思いますし、そうすることでもっと大好きになったり、深い絆が結ばれるんでないかとも思ったり。
インバウンドとか訪日外国人観光客だとかを、目先の売上やトレンドとして捉えていたらもったいないと思うのはタツゴロウ(私)だけでしょうか。
異文化と触れれる機会って、実はそんなに多くないですし、そこから得られる感覚や新しい自分の可能性の発見、もっと大切なことがいっぱいあるような気がした駅構内の喫茶店でした。
次は「伏すこと」について書こうかな。
焚いていること
アーユルヴェーダはナニモノだ。
タツゴロウ(私)です。
今日は、7月14日。
14日は大切な月命日でして、ご供養、、、というか、お話をさせてもらうことにしていたりします。早朝瞑想を始めてからは、14日はお線香を焚いていつもと違うスタイル(贅沢瞑想)で会話を楽しんだりします。
今日はお線香の香りと、朝の爽やかな風が身体にも心地よく感じたわけですが、お話しも愉快というか滑稽なエネルギーと、そしてほんのり黄色がかった提灯のような優しい光を感じました。夢の中なのか現実なのか、うっかり分からなくなってしまうような淡いエネルギーでしたし、それが何を象徴しているものなのかもはっきり分かりませんが、心地よい感覚でしたし、それを感じさせていただけただけで本当にありがたいわけです。リラックスというか安心というか、月一の楽しみでもあったりします。
いつも本当にありがとうございます。
ですし、今日でちょうど1年半。
お互いに身体のある状態でお話しをもさせていただきたかったですが、それは叶いませんでした。あと何十年後、タツゴロウ(私)が肉体から離れる時がきたら、その時は、ちゃんと魂同士でお話させてくださいね。
同じように、早朝瞑想をはじめた時から、11日と19日も贅沢瞑想をしているわけなのですが、不思議とその日は高スピリチュアル男子になれていたりします。
11日、14日、19日にタツゴロウ(私)に会う方は、どうぞご注意ください。
生かせていただけていることに感謝です。