皐月に思うこと
「トンカツ」という、ドえらいトリガーを埋め込まれたタツゴロウ(私)です。
そう言えば、何日か前に「トンカツが食べたい。」とか言っていたあたりから、用意周到意にアンカーが埋め込まれていたんだなぁと感心しているわけです。これからの人生、トンカツを美味しく食べられるかどうか心配でなりません。反射的に一切れを90度回転させ、お皿を持ち上げてしまうんじゃないかって、、、もぅガクブルです、、、はい。
さて、今日は「個性」の話です。
仮に「タツゴロウさんの個性って何ですか?」と問われたら、たぶん、う~ん...って固まってしまうと思うんです。
よく分かりませんが、このような質問をした時に、もし「私の個性はこれです!」なんて、すぐに答えられる方がいたのなら、本当かなぁ?って思ってしまうのはタツゴロウ(私)だけでしょうか。
昨今は「個性至上主義社会」かと思うくらい「個性と呼ばれるもの」を尊重する方が増えているように思います。まるで、その「個性と呼ばれるもの」を持っていないとダメな人のような錯覚も覚えてしまうくらい、何かに付けて個性個性。大人の社会もそうですが、子供達の教育現場においての「個性と呼ばれるもの」の追求と尊重は、恐怖さえ覚えるレベルだと感じています。
そう言うと、タツゴロウ(私)は個性や人格を軽んじていると思われるかも知れませんが、個性や個人の尊厳って、そんなに軽く使えるような言葉ではないと感じていたりしますし、万人がそれを認識出来たり、そうであるべきみたいなコトが風潮として広がるようなものではないと考えていたりするわけです。
簡単に表面的な他者との比較の中で、微々たる違いを見つけ、それを個性と称し、これが俺の個性なのだと、、、それは個性ではないと思うんですね。
以前もどこかで書いたかも知れませんが、タツゴロウ(私)は「個性はにじみ出るもの」だと思っていたりします。
今の自分自身、今あるモノと、他者とを比較して「ここが違いますから、個性です。」とか「たった一人の」みたいな簡単な話しではないんでないかと。ですし、個性を語る時に比較を前提にするのであれば、より多くの他者の個性を認識していなければ、それと比較して自らの個性を感じとることは出来ないと思いますが、そんなことが可能だとはタツゴロウ(私)は思えません。仮に比較出来ているのであれば、神様でも無い限り極めて表面的な比較でしょう。
前提となる「みんなはこう。自分はこう。」と言う、比較の考え方。
それは極めて主観的であり、「みんな」とは極めて限定的なコミュニティ内でしか無い場合がほとんどであったり、比較対象となる多くの外的な情報は、意図のある情報であったりなかったり。誤解を恐れず言えば、それは「自分の個性はこうでありたい。」と言う潜在意識にある願いにも似たフィルタを介して他者を見ている為、逆に自らとの違いを他者に求め、それを探してしまうようなとても可笑しな話になっているのではないかと思います。
それは、個性ではなく、都合です。
個性と他者は無関係です。
タツゴロウ(私)が考えるように、仮に個性が中からにじみ出るような性質のモノであるのなら、「他者と違う」ことが必然的に多くなるだけだと思います。しかし、何十億人もいる他者と同じような場合もあっても全く不思議ではありません。もちろん、本質的に完全一致はあり得ませんが、認識出来るレベルで類似性が高い場合は、少なくないと考えます。むしろ多いと思います。
ようは、個性は比較し見出すものではないということだと思うんです。
自分自身を毎日一生懸命生きる。
とにかく一生懸命全力。
全力で愛する。
そしたら、自然と、嫌でもにじみ出てくるんでないかと思っていますし、一生懸命生きている証だからこそ尊いものなんでないかなと。
何かを手に持たせたり、着飾ったりすることで、表面的な違いを演出したり、引き出したりするような性質のものではないんだろうなと思いますね、、、タツゴロウ(私)だけかも知れませんが。
タツゴロウ(私)の個性ってなんだろうなぁ...
早くにじみ出てこないかなぁ